2006年08月20日

ファシストとしての「同性愛嫌悪批判」

http://b.hatena.ne.jp/keyword/%e5%b7%9d%e5%8e%9f%e6%b3%89
なんか最近ある少女マンガ家の作品が「同性愛嫌悪的だ!」ということでバッシングを受けていて、まぁ別に僕はその少女マンガ家の作品はそんなに読んだことないから、その人の作品が実際にそんなに同性愛嫌悪的なのかは分からないんだけど、一つ疑問に思うことがある。

何でそんなに同性愛を嫌悪することが問題なんだろうか?

だってそうでしょ。例えば、同性愛を嫌悪するから同性愛者を差別するとか、同性愛を嫌悪するから、同性愛者に対する公的扶助を否定する、そういう風なことだったら、僕もいけないと思う(一応僕は心情リベラリストだし)。でも、別にそのマンガ家がやってるのはそういうことじゃない。ただ自分の作品の中でそういう同性愛嫌悪的感情を出し、そして読者との環の中でその感情を消化している。ただそれだけだ。別に同性愛者の得るべき利益とかは何を奪っていないし、同性愛者を元いる場所から排除している訳でもない。ただ自分達の領域で、同性愛嫌悪という感情を完結させているだけ。それの一体、何処が問題なのだろう。1.こういう風に書くと「フェミニズムにおいては『個人的なことは政治的なこと』というテーゼが存在し……」という風に解説する人が出てくるかも知れない。確かにそのテーゼは重要だ。そのテーゼにより、それまで「個人的な領域」とされてきた、例えば家庭内暴力であるとか主婦労働とか、そういうことは実は政治的に構築され、そして政治的に対処されるべきであるとなった。その重要性は、僕も認める。

でも、じゃあそのテーゼが全ての真実、この世の根本原理なのかというと、そうではないだろう。「あらゆることは政治的なことである」と言い切るのは確かに小気味の良いことかも知れないが、しかしそれはつまり、私的領域の消滅をも意味してしまう様なことが気がする。つまり、個人の好き嫌いなどあらゆる行為が政治的な行為とされ、そしてそれ故に政治的介入を受けるようになる。それの行き着く世界は、国家が私生活のあらゆる面に介入する、おぞましい社会の様な気が、僕にはするのだ。

無論だからといって「個人的/政治的」という旧来の区分けに寄りかかることは許されない。問題は、政治的介入を一体何処まで、どの様に進めるかということなのだ。僕はここに根本原理を建てられるほど頭は良くないので、根本原理を建てるのは別の頭の良い誰かにおまかせするが、しかし例示は出来る。DVや家庭内労働は確かに政治的介入の範疇にあるが、一作家の作品は政治的介入の範疇にはない。

2.さて、こう書くと次に「成る程、確かにその少女マンガ家が同性愛嫌悪の感情を描くのは自由かも知れない。でも、ならばその同性愛嫌悪を私達が批判するのも、自由なのではないか」という声が出てくるかも知れない。そして、これは圧倒的に正しいと、僕も思う。

が、一方で僕は、「それは分かった。でも何で同性愛嫌悪を批判するの?」という疑問を改めて提示したくなる。何故なら、「同性愛嫌悪批判は自由である」という事実は、「私達は同性愛嫌悪批判をする」という行為の理由と等価ではないからだ。私達の周りには自由に出来る行為など幾らでもある。その無数にある自由に出来る行為のなかで、一体何故同性愛嫌悪批判という行為を選び取ったのか?そのことが、どうも納得いかない。

その反対に、「同性愛嫌悪を作品内でする」行為は、僕には納得がいく。つまり自らが外部から学習した、同性愛という嫌悪すべきものでありながら、社会では嫌悪されないイメージを、まず同性愛自身を自らの作品で描写し、そしてそれを作品内で嫌悪することによって、嫌悪すべきものであり、嫌悪されるものというイメージに、自己内で変化させている。そんな行程が頭に浮かぶ。そしてこの行程はとても素晴らしい行程だと思う。別に自らの嫌悪を同性愛者に直接発散しているわけではなく、ただ自分たちの世界内部で納めているのだから、同性愛擁護者から褒められることはあるにすれ、貶されることでは無い筈だ。

もちろん、そういう他者の世界その中にある「同性愛」のイメージすら、自己の統制下におき、好意的なものとして存在させたい、そんなことを思う人なら、もしかしたらそういう行為でさえ許せないのかも知れない。しかしそんな他者のイメージすら自己の支配下に置こうなんていう欲望は、全ての人を自分の意のままに操りたいという独裁者の欲望と変わらない。同性愛嫌悪批判者の全てがそんな欲望を持っているとは信じたくない(まぁ、そういう人が多々いるっていうことは、昔の苦い経験から良く分かっていますが。特に同性愛擁護の界隈にそういう人が居るってこともね……)

上記で語ったことをもっと感情的に例示するとこうなる。僕は大学生だ。だが僕が読む本の中には、「大学生」、特に「働かずに親の金で大学に通っている大学生」を批判する著者も沢山居る。そういう人は著作の中で散々そういう「大学生」を嫌悪する。だが僕はそういう人の本を読む。何故か?別にその人が幾ら「大学生」というカテゴリーを批判しようが、僕自身の領域には何も侵犯してこないからだ。別に僕は「大学生」というカテゴリーに帰属意識を持ってないし、それ故他者の世界の中にある「大学生」というカテゴリーを自己の統制下に置こうとも考えない。それ故その人が作品中で幾ら「大学生」を批判しようが、僕は(その作品が面白ければ)何も文句は言わない。

所が今回のケースの人々は、そうではない。ということはつまり僕の反対なのではないか?つまり、「同性愛(擁護)者」というカテゴリーに帰属意識を持っており、それ故他者の世界にある「同性愛者」というカテゴリーまで自己の統制下に置こうとしている。だからその統制を行う為に、その作者の同性愛嫌悪批判を行って、作者の世界を自己の統制下に置こうとしているのではないか。もしそうだとしたら、それは大変にキモチワルイことだと思うのだ。

3.かつて同性愛嫌悪が激しかった時代、同性愛者批判がとても激しく、同性愛者、及びその擁護者がとても厳しい状態に置かれたことは認めよう。実際僕も、「異性愛じゃないと子供が産まないから、同性愛者は絶滅させるべきだ」とかいう言説は大嫌いだし、そういう言説に対し社会的影響力を持たせようとする人間はどんどん批判していけば良いと思う。

しかしだからといって全ての同性愛嫌悪を撲滅させるべきなんていうのは、ファシストの考えなのではないだろうか?

例えば僕は、もちろん同性愛者かそうではないかによって社会的差別をするなんてことは許されないと思うし、今のように異性愛者と同性愛者の間で、例えば前者ならば結婚制度によって庇護が得られるが後者はその制度が使えず庇護が得られないなんていうのは、やっぱり道理が通ってない不公平であり、是正されるべきと考える(ついでに言うと僕は、その是正策としては、結婚制度の廃止以外にないと考えている)。

でも、そのような当たり前の前提に立ちながらも、僕は同性愛者を嫌悪する。何故か?「異性愛じゃないと子供が産まないから」なんていう理由では勿論無い。僕は、異性愛にしろ同性愛にしろ、「愛」というもの、及びその「愛」とかいうものを大事にし、他人に押しつける人が大嫌いなのだ。結局同性愛者にしろ異性愛者にしろ「愛」を大事にしろと言うのに代わりはない。だか、その「愛」を大事にしろという価値観によって、人はこれまで自分に無益な争いをし、他者を傷つけ自分を傷つけてきた。もし人が全て自分を大事にし、自分の命を一番大事にすべきと考えるなら、きっとこの世の中はもっと平和になるはずだ。戦争だって、「家族(恋人)の為……」とか考えるから参加しちゃう(=人殺しになる)のであって、自分第一ならみんなとっとと逃げて、戦争に協力しないはずなのだ。

結局「愛」なんてものは幼稚なエゴイズムに過ぎない。幼稚だから完全に自分第一とならず、他人を巻き込む。自分を愛さない相手を脅し、自分の意のままにさせようとする。エゴイズムが完成した人間ならそんなことはしない。自分の世界にいるのは結局の所自分だけで十分だからだ。自分の世界に他人を引きずり込もうと考える人間は、幼稚であり、危険である。だから僕は、繰り返しになるが、「愛」とかを持つ人間が大嫌いなのだ。

以上が僕が同性愛を嫌悪する理由だ。これは、社会的な偏見などとはほぼ無関係(よく「同性愛嫌悪は全て社会的偏見に基づく。だから同性愛嫌悪はすべからく悪だ」という様な主張をする人が居る。だが、人間の考えはそんな単純なものではないのだ)な僕の信条だから、例え同性愛(擁護)者から幾ら圧力を加えられようが、この信条を変えるつもりはない。別に僕はこれをもって同性愛者に社会的差別をしたりしていないのだから、そもそも変える根拠がないのだ。根拠がない行為に、幾ら圧力を掛けたって、根拠がない限り行為は遂行されない。

もう一回言うが、僕はこれまでの同性愛擁護運動を評価しているし、これからもその様な運動は必要であると考える。しかしだからこそ、その運動が本当に世間に“相手にされる”為にも、このような、一般の人に「理不尽な圧力」という印象だけ与え、恐怖感を与える(僕が論争本体にリンクしてないのも、この恐怖感の為だ)様な、稚拙な批判はさけるべきではないだろうか。大体、たかが自分の属しているカテゴリがある作者の嫌悪の対象になっているからって、その作者を全て否定するなんてことは、とてももったいないことだと思う。作品は作品として、自分の属すカテゴリーとは一旦切り離し楽しむ。こういうリテラシーを持った方が、絶対これから面白い作品を見る確立が大きくなると、僕は思うんだけどなぁ……。


posted by rokatan at 08:57| 静岡 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 長文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
古い記事のようですが、読んだのは今が初なのでコメントさせていただきます。

人は多かれ少なかれ迷惑を掛け合って生きています。
例えば、好きでもない人に告白をされた。
嫌いな人、気持ち悪い人に告白をされた。
だから何だというのでしょうか。
対象外なら断ればいいだけのことです。
それ以上、何もありません。
これでギャーギャー騒ぐのは自分のことばかりを考え、人の立場に立てない証拠です。愛のない証拠です。幼い証拠です。
それはなぜかというと、あなたも素敵な女性に対して、どんなに誠心誠意、心から勇気を持って告白したとしても、結果的に同じような目に合わせてしまう可能性があるからなのですよ。その女性にはあなたに好きになられて迷惑だということは起こり得るわけです。

そもそも同性愛者という一つの括りが、如何に大雑把か。
人を「男」で括った場合はどうなるでしょうか。
男には犯罪者もいれば、真面目な人も冷たい人も優しい人もいます。女性に対して執着してしまうストーカー男がいるならば、それよりは、心ある同性愛者のほうがマトモということです。
つまり同性愛者にもいろいろな人がいるのですよ。
あなたのことを気遣い、決して同性愛者だということをあなたに感じさせまいとして生きている、そんな優しい人が身近にいるはずです。あなたのようなタイプの人々に嫌悪感を覚えさせてしまうことを、何より苦痛に感じている同性愛者たちです。もし彼らが自分の存在によって、相手に嫌悪感を抱かせてしまうくらいならば、彼らはあなたの前からなるべく自然に立ち去るように努力してくれています。また気持ち悪いと思わせてしまいそうな個人情報や要素が発覚し兼ねないと判断したイベントごと等には、参加したくても上手く言い訳を考えてまで参加しないようにしてくれることもあります。

あなたはそうした気遣いの存在を知らないのです。でもそれも当然です。そのような存在がわからないのは、彼らがとても器用で、普通ではしなくても済む努力を人一倍しているからなのです。つまり、実際の生活の場では、あなたがその存在に気付かないほど、あなたにとって普通の人と変わらない人もいるということです。

人の嫌がることは絶対にしたくない・・・これはどういうことか。彼らがあなたを愛しているからなのです。あなたを愛する人々は、あなたを助けますが、嫌がることはしたくないのです。好意をどれだけアダで返されても、です。
同性愛者にはそのようなタイプが少数派ではないということ、そのことを片隅で結構ですから、留めておいていただけたらと思います。

Posted by ** at 2008年10月19日 02:37
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